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石原医師”老いるほど若く見える健康法”紹介-宮沢賢治一日玄米四合食如何2

平成29年 4月 5日(水):初稿
○「石原医師”老いるほど若く見える健康法”紹介-宮沢賢治一日玄米四合食如何」を続けます。
宮沢賢治は、本当に、石原結實医師が言うように、一日玄米四合も食べたことで、食べ過ぎによって死んだのかとの疑問について検討するため、丸善仙台店で、山下聖美著「新書で入門 宮沢賢治のちから」を購入してしまいました。立ち読みしていると「Ⅵ章 理想と現実に揺れて-羅須地人協会時代」の「5 粗食の美食家-賢治の味覚」という小見出しを見つけたからです。

「新書で入門 宮沢賢治のちから」の「はじめに」に作家宮沢賢治の人生を簡潔に述べると「生涯に稼いだ原稿料はたったの5円。自費出版で詩集を出すものの、古本屋の店頭で雨風にさらされ、続いて出した童話集も殆ど売れず、家出。フリーター生活を経て定職に就くも転職を繰り返し、パラサイトシングルのまま37年の短い生涯を閉じた極度のシスターコンプレックス」とのことです。

○宮沢賢治は、明治29年8月27日生まれで、昭和8年9月21日に急性肺炎のため37歳1ヶ月で永眠していますが、生前は殆ど無名の人だったものが、没後に人気に火が付き生誕110年を超えた今(2008年9月20日発行)も続いているとのことです。確かに「雨ニモマケズ」の詩や岩手県の生んだ石川啄木・宮沢賢治の両作家を知らない日本人は居ないと思われます。残念ながら、我が宮城県にはこれほど有名な作家は居ません。

○で、羅須地人協会時代(大正15年・昭和元年30歳~昭和3年32歳)の「5 粗食の美食家-賢治の味覚」での賢治の食生活の記述は、以下の通りです。
・ご飯は一度に炊けるだけ炊き、冬は凍ったものをそのまま食べ、夏は腐らないようにザルに移して井戸に吊るし、おかずは油揚げだけ
・東京の下宿先でも芋と豆腐と油揚げだけを食べていた
・教師時代には、家から持っていった弁当を翌日に食べ、自ら畑で栽培したトマトだけで食事を済ませた
・肉食に対して過剰なまでに神経質
・賢治が菜食にこだわったのは、ある一定の期間に過ぎず、牛丼・カレーライス・鰻丼・天丼・天ぷらそばなども大好物だった
・賢治の作品には、贅沢な食べ物を口にする者には、必ずと言っていいほど悲惨な結末が用意されている
・粗食を心配する叔母に賢治は「僕はナスの漬物が大好物で、それさえあれば何もいらない。5本も6本も食べます」と言った。
・賢治がどんなに粗食をこころがけても、農民達の貧しさを真に理解することはできなかった。
・肉でも野菜でもない精神的な糧、「ものがたり」こそが、賢治にとっての「ほんたうのたべもの」であった。
・賢治は人一倍の味覚を持っていたからこそ、粗食でも満足できたと考えることはできないか。

以上の通り、残念ながら「一日玄米四合」に関連する記述は全くみられません。

○山下聖美著「新書で入門 宮沢賢治のちから」「Ⅶ章 死への助走 東北採石工場技師時代(昭和4~8年)」によると、賢治は、昭和3年32歳の時肺結核を発症し、5年後の37歳で生涯を閉じましたが、身体は丈夫なほうではなく6歳で赤痢、18歳で肥厚性鼻炎の手術を受け、発疹チフスの疑いで入院し、22歳の徴兵検査では第二乙種で徴兵されることはなかったとのことです。昭和8年9月21日午後1時30分、賢治は、数日前から患った急性肺炎をこじらせて息を引き取ったようですが、「一日玄米四合」が死因に関連するかどうかは、全く不明です。

以上:1,400文字

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