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父亀治郎の話し

平成13年 9月 1日(土):初稿 平成16年 9月23日(木):更新
■愛されていることの自覚の重要性
 夫婦関係でも全く同じですが、人間関係は「愛されているとの自覚」がある限り崩れないと思います。
 しかし、相手に「愛されているとの自覚」を持って貰うことは、結構難しいものです。「愛している、愛している」と百万べん繰り返し言うことで、自覚して貰えるような簡単なものではありません。

 良く妻に愛想を尽かされた夫は、「俺がこれほどお前を愛しているのに何故判ってくれないんだ」という例があります。しかしこんなセリフは逆効果であり、却って気持ちが離れる一方になります。
 同様に、親が子供に、「私達がこんなにお前を愛して、心配しているのに何故判ってくれないの。どうして言うことを聞いてくれないの」と言うセリフがあります。

 この「---なのに、どうして---」と言うセリフは、関係が破綻し、或いは破綻しつつある場合に良く聞きますが、実は全く逆効果でしかありません。
 私は、その理由は、「押し付け」にあると考えております。人間は、誰しも「押し付け」られたと感じると反発するだけです。

 愛されているという自覚は、「押し付け」では絶対に生まれないと言うことを私は父ちゃんに教えられました。私は、小さいときからずっと父ちゃんと呼び続けてきましたがこの通信では、格好が悪いので、気取って父と表現させてください。
 
■父の経歴  漁船船頭を辞めるまで
 父は、大正元年、漁師の子として唐桑村に生まれ、高等小学校卒業後の15歳から漁船乗組員となり、サンマ船、トロール船、遠洋鮪船等数多くの漁船に乗り組み、満65歳まで50年間洋上で過ごしました。
 父は、2女、2男4人の子供をもうけましたが、長男は3才の時皮膚病が原因で夭折しました。私は父が40才の時、4人目の子供として生まれました。長男を亡くしていた父は男子の誕生を小躍りして喜んだそうです。

 父は、私が物心ついたときには船頭(漁労長)として、漁船のトップとして働いていました。漁から帰ってくると私を抱き上げ、髭面で頬ずりするのが常でした。私には嫌々しながらも妙な心地よさを感じていました。

 漁船員は肉体的重労働であり、早い人は年金が貰える55才で現役を引退する人も多くいます。父が55才になったときは、私はまだ16才、高校1年生でした。
 その時は長女に婿養子を迎え、孫も一人出来、もう引退しても良い時期でした。しかし、大学進学を希望する高校1年の私が残っていると言うことで、父はそれまでのマグロ船船頭を辞めるも、三重県を本拠地とするカツオ船に平船員として乗り組みました。
 
■カツオ船平船員として10年
 それまでの船頭から、カツオ船平船員として他の漁船に乗り組むことは、おそらく父にとっては、プライドを損なう辛い仕事だったと思われます。船頭は漁労作業を指示する立場ですが、平船員の仕事は、カツオを一本釣りして抱きかかえて船倉に入れる激務です。

 三重県尾鷲市が本拠地で、気仙沼に帰るのは盆、正月の各1週間程度でした。毎年暮れになると真っ赤に日焼けした顔で帰り、正月明け早々列車で三重県に出稼ぎに行く年月が続きました。
 私が1浪して大学に入ったとき、父は59才になっており、周囲は、60才過ぎてまでカツオ船の激務を続けるのは酷だと思い始めていましたが、父は私が人(ひと、社会人の意味)になるまでは頑張ると言って、60才過ぎてもカツオ船の仕事を続けました。

 私は、大学4年の時から司法試験を受け始め、大学卒業後も勉強を続けて初志貫徹したいと父に言ったとき父は、まだ働けるから大丈夫だ、頑張れと快く励ましてくれました。  
 この時父は62才になっていました。
 それが卒業1年目2年目と連続第1関門で失敗し、私は25才となり、父は64才になった年の暮れのことです。母を含め周囲はもう年だから漁船は降りて貰おうと考えていました。

■忘れられない光景-俺ももう1年頑張るからお前も頑張れ
 私には、今でも瞼にクッキリと焼き付いて離れない光景があります。私25才、父64才の昭和51年暮れのことです。

 夕方図書館から帰ってくると、父が長い出稼ぎの漁から帰って、風呂に入っていました。風呂場に父に報告に行くと、さすがに疲れたという表情で、浴槽に入っていました。
 「父ちゃん、申し訳ない。又落ちてしまった。」と言うと、父は、浴槽に入ったまま、日焼けで真っ赤になった顔で、言いました。

気にするな。俺ももう1年頑張るから、お前も頑張れ

 おそらく洋上で私の不合格の方を聞いた父は、心に決めていたのでしょう。実に淡々と、何の気負いもなく、当たり前の如く、もう1年働くと言ってくれたのです。
 てっきりもう船は辞めると言う言葉を受けると思っていた私は、父の「もう1年頑張る」と言う言葉が胸にジーンと響き、胸が張り裂けそうな思いでした。

 同級生達の多くは立派に社会人になっているのに、25才にもなって将来の当てもなく64才になる老父を漁船員という激務につかせている。何と情けいない男だ。この時の父の言葉を原動力として私は翌年26才でようやく司法試験に合格できました。この時父は65才で洋上で働いていました。

 今でもあの時の光景を思い出すと、涙が出てきます。
 
■父の教え
 64才の父が言った「俺ももう1年頑張るからお前も頑張れ」と言う言葉は、私に強烈な感動を与えてくれました。私は、父のこの言葉に父の私に対する愛情をひしひしと感じ、「愛されているとの自覚」を十二分に与えてくれました。

 しかし、父の言葉に、何故かくも私が感動し、やる気を奮い立たされたのか、実は、当時は完全には気付いてはおりませんでした。弁護士となって男女関係や親子関係など人の争いに関与する実務を長く経験し、更に自分自身結婚し、一度は破れ、2人の子供の親になり、直接・間接に多くの人間同士のあつれきを体験し、ようやく少し感動の理由が判ってきました。

 それは私への励ましについて全く「押し付け」が無かったことでした。あの時の父の言葉には、確かに疲れた顔をしていましたが、「俺も年を取って仕事は大変だけどお前のために頑張る」と言うような、お仕着せがましい語調が全くありませんでした。至極当然の如く、淡々と何らの気負いも感じさせることなく、「俺ももう1年頑張るから」と言ってくれたのです。
「父ちゃんが、こんなに年を取って辛い仕事をしているのにお前はなんてだらしがないんだ。甘えるのもいい加減にしろ。」と言われた方がその場では却って気持ちが、楽だったかも知れません。そして「何くそと」と発憤したかも知れません。

 しかし、人間は、「押し付け」られたと感じると、必ず心の底に反発の感情を持ちます。この反発の感情は、積極方向に向かえば良いのですが、往々にして消極方向即ち投げやりの方向に向かわせます。

 「押し付け」を全く感じさせない、淡々とした父の励ましは、私を投げやりの方向には向かわせる余地を全く残しませんでした。無味乾燥な受験勉強を黙々と続けていると、嫌になって逃げ出したくなるときが度々ありますが、父の言葉から受けた感動により、私は、逃げ出すことなく翌年ようやく目的を達しました。
 
以上:2,929文字

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