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私とギター

昭和55年 7月 1日:初稿 平成18年11月11日:更新
以下、昭和55年7月13日、私が28歳、弁護士1年生の時、気仙沼市内で発行している三陸新報日曜版に掲載された、「ギターと私」と題する私のエッセイに、ホンの少しばかり加筆訂正したものです。

この文章執筆当時は、まだ28歳と若く、また、弁護士1年ということで、相当気取りの感じられるホントに恥ずかしいものですが、出来る限り当時のままに掲載します。

尚、私の大好きな古賀政男先生の「影を慕いて」の10数年前の私の演奏もアップしました。約3Mで大きいのですが、ご鑑賞頂ければ幸いです。又平成18年11月11日、ページ末尾に当時の三陸新報の記事画像を追加しました。

小松亀一演奏「影を 慕いて」


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私がギターを初めて手にしたのは、中学2年の夏だった。当時高一の姉が友人から借りてきたギターをいたずらしているうちに、単音ながらバーブ佐竹の「女心の唄」を弾けるようになった。又、私の家に出入りしていた三重県の鰹船乗組員の一人が「影を慕いて」等の古賀政男の名曲を弾きこなすのに大いに感動し、ギターに興味を覚えた私は、その年の11月、当時、最安値であった3000円の古賀ギターを購入した。当時、ギターと言えば古賀ギター全盛時代で、スチール線が張ってあり、自分でナイロンガットに張り替えて使った。

当時,NHKテレビで毎週日曜夜放送の「歌のグランドショー」でアントニオ古賀が毎回ギター独奏をしていた。私はそのテクニックに感嘆し、いつかあのように弾きたいと思い教則本を買い独学で練習を始めた。
しかしいっこうに上達しないため中学3年の4月からクラッシックギターの通信教育を受けることにした。これは毎月の月謝が2000円でソノシートレコード付きの教則本を送ってくれるものだった。ソノシートで小原安正講師の演奏や話を耳で聴けるので多少練習の成果が上がった。尚、月謝2000円は大金であり、4人の同志を募り、一人500円ずつ分担したが、実際熱心に使ったのは私だけだった。

当時はソノシートレコードの全盛時代で、中学3年の夏頃、古賀政男実演ソノシート付古賀政男ギター名曲集を購入して、「影を慕いて」を懸命に練習した。又、クラシックギターでは確か舟山幸一氏演奏「アルハンブラの思い出」、フラメンコギターでは草分け伊藤日出夫氏演奏「グラナディーナス」の録音されたソノシートレコードを聴いて感激し、いつか自分の手で演奏したいと思い懸命にそのための基礎であるアルペジオ(分散和音)の練習をしたものである。
(古賀政男実演ソノシート付古賀政男ギター名曲集の表紙と裏表紙)
 

昭和42年の春、私は気仙沼高校に入学。この頃には念願の「アルハンブラの思い出」も暗譜してどうにか音をなぞることが出来るようになっていた。ギターに魅せられた私は高校では当然ギター部に入るつもりでいた。しかし残念ながら当時の気高にはギター部はなかった。そこで友人の誘いでテニス部に入ったが、ギターへの情熱やみがたく2年の夏にテニス部を退部し、数人の友人達とギター愛好会を結成した。クラブとしてはゼロからの出発であったが、それだけにギター好きの私にとってやりがいのあるクラブであった。高2の文化祭が初舞台であり、脂汗を流しながらの演奏が今でも懐かしく思い出される。

この年の秋の市民文化祭への出演がきっかけで関村正道氏とめぐり会えた。当時の彼はまさにクラッシックギターの気狂いで、プロ並みの腕前を有しておられ、私は種々の有益な助言をいただいた。私にとって彼は直接指導を受けた最初の師であった。同じ頃、労音の月例会で気高の2年先輩の西城誠氏のフラメンコギターの演奏を聴き、その迫力にド肝を抜かれたことも印象深く残っている。

1年の浪人生活の後、昭和46年の春仙台の大学に入学した私はフラメンコか、クラッシックか迷った末、西城先輩の師でもあるフラメンコギターの相崎勝利先生の門をたたいた。ここで私は井戸の中の蛙であったことを思い知らされ、そして基礎からみっちり練習し直した。

大学2年の春、仙台の電力ホールでスペインの天才フラメンコギタリスト、「パコ・デ・ルシア」の演奏を聴くことが出来た。世界の超一流アーチストの演奏を目の当たりにした私は、その驚異的なテクニックに唖然とし、その夜は興奮して眠れぬ程であった。そしてそれからの私は、少しでもパコに近づきたいという身の程知らずの願望を抱き、いよいよフラメンコギターの虜になっていった。

大学2年、3年と週に1回ずつ相崎先生のもとに通い、自分では相当時間をかけてフラメンコギターに取り組んだつもりでいた。しかし思うように伸びなかった。結局才能がなかったのである。そのことを痛切に自覚したのは大学3年の後半になってからである。そして大学4年になると司法試験の勉強が忙しくなり、あまりギターの練習に時間を取れなくなった。

私が大学在学中、気仙沼市役所勤務の鈴木徳之君をはじめとする気高ギター部のOBが中心となって、気仙沼ギター研究会が発足し、昭和49年3月に第1回目の演奏会が気仙沼市民会館中ホールで開かれ、私も会員の一人として出演した。その後も、ギター研究会は鈴木君等の努力で活動が続けられ、昭和53年1月には鼎が浦マンドリンクラブのOGを加えて、気仙沼プレクトラムアンサンブル(略称・KPA)と改称し、マンドリンとギターを中心とする合奏団としてスタートした。

私も、昭和52年10月宿願の司法試験に合格し、受験勉強から解放されていたので、KPAに加わった。そして昭和53年3月に市民会館大ホールでKPAの第1回目の定期演奏会を開いた。私はその時の4月に司法修習のため、気仙沼を離れたが、KPAは昨年第2回目の定期演奏会を開き、現在第3回目の定期演奏会を目指して準備を進めている。私は現在は仙台に居て参加出来ないが、いつか気仙沼に戻った時は再びKPAに参加したいと思っている。

以上私のギター歴についてえらそうに書いてきたが、正直にいうと私は、生来音楽的センスが極めて悪い。歌を唄えば音程が大きくはずれるし、音感、リズム感共にぶい。従って私のギターも、下手の横好きの域を出ない。しかし、私はギターが好きである。ギターを通じて多くの良き友人を得ることが出来た。又、生来内気で引っ込み思案であった私が、人前に出られるようになったのもギターのおかげだった。試験に失敗し、あるいは失恋による失意の時、常にギターは良き友でいてくれた。

私は、現在弁護士の道を歩きはじめ、忙しい毎日であるが、身心の疲れをいやす時ギターは快よく付き合ってくれる。私はたとえ下手の横好きであってもギターを喜び悲しみを友に味わう生涯の友として、これからの人生を頑張っていくつもりである。


三陸新報昭和55年(1980年)7月13日日曜版抜粋
以上:2,812文字

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