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新聞配達の思い出-肉体労働でのお金を稼ぐ大変さの認識2

平成23年 2月22日(火):初稿
○「新聞配達の思い出-肉体労働でのお金を稼ぐ大変さの認識」を続けます。
この記事に対し「同感です、眼や耳から入った抽象的な知識も、身につけるためには、何らかの体験を経ないと、定着しないと思います。その点で手や足を動かして(肉体を通して)得た知識や感覚は、最も確実に身に着くものと思います。」とのご感想投稿メールを頂きました。有り難うございました。
この肉体を通して得た知識・感覚とは、俗に言う肌で感じた体験です。手足に実際に感じた冷たさ、重さ等が僅かのお金として返ってくることで,お金の有り難み、重要さを、また肌で感じて、最終的には世の中の厳しさを実感することが重要と考えています。

○私は大学4年次終了の3月、大学に籍を残したまま郷里気仙沼に帰って司法試験受験勉強を継続しました。右耳の慢性中耳炎が悪化し、耳鼻科通いが必要となり、仙台での生活を断念し、仙台で借りていた部屋は引き払い,完全に郷里気仙沼の実家に戻りました。

○奨学金もなくなり、収入も全く途絶えたため、大学時代3年間フラメンコギター教室に通ったことから、小遣い稼ぎのため模造紙に気仙沼初のギター教室と大書きして、気仙沼市内の2つの楽器店店内に貼って貰い生徒を募集しました。すると一時は10名も生徒が集まり、結構な小遣い稼ぎとなりました。今思うと、資格もないのにあるように装う詐欺みたいなものですが、当時は、親に少しでも迷惑をかけたくないとの一心の、正に形振り構わずの所業でした。

○しかしこのアルバイトも実質1年で廃業しました。卒業2年目も択一試験不合格で、且つ、右耳中耳炎悪化で、手術を受けなければならない状況となり、ギター教室どころではなくなったからです。卒業2年目の夏、懸案の右耳慢性中耳炎解消のため東北労災病院で当時の耳鼻科部長湯浅涼先生の鼓室形成手術を受け、穴の空いていた鼓膜を修復しました。その結果、それまで年中行事のように再発を繰り返して居た中耳炎が、その後現在に至るまで全く再発が無くなりました。

○そして卒業2年目の秋からは、アルバイト等は一切考えずに、翌卒業3年目での合格を目指して司法試験受験勉強に専念しました。当時、私の生活を支えてくれた父親は、既に64歳の高齢で激務の鰹船乗組員をしていたため、父の世話になるのはこの1年だけと決め、いわば背水の陣で卒業3年目の試験に臨みました。

○卒業3年目で絶対に受かるとの信念を持ちながら、その完全な自信は持てませんでしたが、不思議と悲愴感はありませんでした。もし卒業3年目も不合格であれば、中耳炎も解消し身体の不安もなくなったこともあり、東京に出て朝日奨学会に入って朝刊・夕刊の新聞配達をしながら受験予備校にも通い、兎に角、何年かかろうと合格するまで受験勉強を継続すると開き直っていたからです。

○中学3年・高校1年の僅か2年間だけですが,高校入試期間含めて1日も休むことなく新聞配達を続けたとの経験で、新聞配達ならやれるとの自信があったことが開き直りの理由です。住み込みで朝刊・夕刊の配達を毎日5時間程度やれば、生活費は自力で稼ぎ、親には一切迷惑をかけないで受験勉強が継続できるはずでした。結局、卒業3年目で運良く合格出来て、朝日奨学会に入ることはありませんでした。しかし、新聞配達の経験は、司法試験受験勉強継続意思を強固にするという意味でも大きな役割を果たしてくれ、我が人生を左右する程の貴重な経験であり、新聞配達を経験してホントに良かったと思っております。
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