○高市首相就任直後の中国習近平主席との直接会談で日本と中国が共通の利益を追求しながら協力する成熟した国家関係を目指すとの日中戦略的互恵関係の確認がなされ先ずは無難なスタートを切ったと安心したのもつかの間、その後の台湾有事に関する国会答弁で日中間に深刻な対立が生じて、困ったものです。高市答弁について、右派から当然との擁護意見、左派からとんでもないとの批判意見が出されています。日中国交回復は、昭和47年田中首相が就任直後に右翼から暗殺の覚悟で断行されたもので、今でも右翼からは蛮行と非難されています。
○この問題について、東洋経済ONLINEで九州大学准教授前原志保氏の「
新聞ですら間違えた「台湾問題」に対する日本政府の立場。「日本は台湾を中国の一部と認めている」と思い込む人たちの課題」という大変参考になる記事が出ました。以下、日本現代史をスッカリ忘れていた私の備忘録です。田中首相・周恩来首相による日中共同声明の内容で「
「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部」というのはあくまで中国側の主張であって、日本はそれを「承認(recognize)」しているわけではない」と言う点はスッカリ忘れていました。
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「新聞ですら間違えた「台湾問題」に対する日本政府の立場。「日本は台湾を中国の一部と認めている」と思い込む人たちの課題」
東洋経済ONLINE2025/11/18 5:30九州大学准教授前原志保氏
・1943年;カイロ宣言アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、中華民国の蔣介石主席が共同声明。「日本が中国から奪った領土(満州、台湾、澎湖諸島)は中華民国に返還されるべき」とした。これは戦後処理の方針表明であり、条約ではない。
・1945年;日本は、日本の降伏条件を定めた文書ポツダム宣言を受諾。連合国が日本に対して「カイロ宣言の条項は履行される」「日本の主権の範囲は、本州、北海道、九州、四国と小さな島々に限定」と明記。これにより日本の台湾統治は終了。台湾の地位に関しては「将来の平和条約によって最終的に決定される」と、台湾の法的地位は日本と連合国間の講和条約まで保留された。
・1951年;サンフランシスコ平和条締結。同条約には中華民国政府と中華人民共和国政府の双方ともに出席していない。国民党と共産党の内戦によって中華民国政府は台湾に撤退し、中国大陸では中華人民共和国政府が樹立され、どちらを正統な中国政府とするか連合国内でも意見が割れて、両方とも招かれなかった。そのため、サンフランシスコ平和条約は日本政府が台湾を「放棄する」とだけして、帰属先を明言しない形で結ばれた。
・1952年;日本と中華民国との間に日華平和条約が締結され、この条約によって両国間の戦争状態は正式に終結し、2国間の外交関係が樹立。ただ、この条約の適用範囲は、中華民国の実効支配地域(台湾・澎湖)にのみに限定された。そして中華民国政府が台湾を統治する実態は認めているものの、台湾の帰属先は明言されなかった。
・1972年;日華平和条約が終了し、日本と中華人民共和国との間で日中共同声明が出される。その時の重要な確認事項は第2項:「日本国政府は、中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認する」
第3項:「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し(fully understands and respects)、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」
「ポツダム宣言第8項」とは上記にも提示した「カイロ宣言の条項は履行される」「日本の主権の範囲は、本州、北海道、九州、四国と小さな島々に限定」という部分
「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部」というのはあくまで中国側の主張であって、日本はそれを「承認(recognize)」しているわけではない
尊重(respects)は、「否定はしないが、賛同もしない」、「相手の立場を踏まえているが距離をとる」というニュアンス
中国語で「充分理解和尊重」とは、相手の立場を否定はしないが、同意も承認もしていない”という中立的な距離感
台湾は、2300万人の生身の人間が暮らす場所だ。台湾人は、自らが獲得した自由と民主主義と人権を守るために、中国からの武力威嚇に備えざるを得ない状況に置かれている。
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